Archive for the ‘メディアやニュース’ Category

八戸が、がんばってる

先日、仕事関係の、八戸で開かれた講演が行われたのは、
南部会館という由緒ある建物だった。
南部会館といえば、私にとっては、公文式だ。
小学校の3年生くらいだったかに、あまりにも算数のデキが悪い私を案じた母が、入れたのだ。
私は町の真ん中に住んでた(今も実家はそこ)ので、徒歩圏内。行く途中には、本屋やゲームセンターなど、寄り道し放題だ。誘惑が多すぎた。
親の期待に反して、学び30分、寄り道2時間。
ツイッター界隈で今をときめくカネイリさんほか、
当時は、通り道に何店舗もあった本屋さんで延々と立ち読み。
「エコエコアザラク」や「恐怖新聞」、「ブラックジャック」「三つ目がとおる」など、
さまざまなコミックスを次々と読破し、
それから、長崎屋の最上階ゲームセンターで、10円の綿あめ買って、コインゲーム。
ピアノも習ってたけど、似たような経過をたどった。
えーと、
そんな子供時代の思い出がちらちらよぎる南部会館で、仕事関係のセミナーを受講できるとは、なんだかそれ自体も感慨深い。
さらに、十六日町では、「八戸の棚」という、あれはどういうものか私もなんかよくわからないのだけど(すみません)、そういう試みもなされている。
さっそく実家で、「ねえねえ、何年か前まで布地やさんだったあそこでさ、こういうのをやってるらしいよ」と吹聴してみた。
母は、生粋の八戸の町っこだ。
かつてあった問屋さんの娘だし、昔ながらの近所づきあいも。
町の各商店は、ただのお店ではなく、
「どこどこの誰がやってる、●●屋」だ。
しかしどんどん世代交代して、近年は閉める店、失われる店ばかり。
母と「八戸の棚」を覗いてみたときは、
八戸東高校の制服を来た女子がベースギターを持って立っていて、
なにやら疑問符を抱きつつ通り過ぎたが・・・
でも、八戸が、世代交代してよくわかんないけど、
ナンだか頑張ろうとしているぞ?という雰囲気は、
建設中の「はっち」を遠目に見ながら、母も感じているらしい。
ただ、心配しているのは、
若い人たちが、「新しいことに挑戦する雰囲気」に流されて、
浮き足立った、その場限りのものにならないこと。
戦争、商売の没落と、八戸の町・ど真ん中をずっと生きてきた高齢者も、これならよかったと思える展開に、なっていってほしいと思う。

Twitterのこと2

Twitterの利用者は、どんどん増えているみたいだ。
私をフォロー(私の書いている内容をいつも見る設定をすること?でいいのかな)してくる人をみていると、半分は、アフィリエイトとか、そういう商売っぽい目的の人だと思う。
あとは、「私はITコンサルタントです」みたいな人とか。
キーワードで自動フォローして、こちらがフォローしかえさなかったらリムーブ(フォローをやめる)する、というプログラムもあるらしいから、別に私をねらってしてきているのではないんだろうな。

そういう人は、自分が書いた有益なブログの記事へのリンクをはって、「○○をこうするには?その答えを書きました」とか、そういう思わせぶりなツイート(前はつぶやき、といってたね)したり。
あとは、「私は過去に、こういう会社と、こういう案件をやったことがあります。」みたいな経験を語ったり。
それから、「お客様にこのようにすすめてきた○○がようやく実りました。胸を熱くして、さらにいっそう頑張ろうと決意を新たにしています。」みたいな、延々、決意表明とか。
正直言って、かなりうっとおしい。

だから、フォローすることは、ない。フォローされたら一度は見に行くけど。
面識があって、こちらが応援している人なら決意表明されても、自慢話(自分の経験を聞かれてないのに話すのって、そういうとこあると思う)されても、そうなんだ、頑張ってねと思えるのでまあいいが、どこのだれかわからない人だとちょっと。

Twitterを「よおし、知名度アップに活用するぞー!」と意気込んでいる感じって、文章が短いだけに、ダイレクトに伝わる。やめたほうがいいと思う。

といってる私のツイートは、ほとんどが完全にひとりごとだったり、あるいは、グチだったりだ。
例えば、義母に付き添って病院いったけど、待ち時間長すぎ、とか。ヤなこと言われた、うぇぇん(><)とか。そんなもん。
たまぁに、グチグチグチいいたくなったときは、長くなることもあって、それは申し訳ないけど、そういうときもあるよね、っていう・・
完全に個人利用。
そういうのどかさに気付いたときに、ツイッター、面白くなっていたのだけど、最近、↑みたいなタイプが多かったりして、ちょっとなあと思う。

あとこれは、自分がフォローしていった責任もあるのだけど、
何かの最新情報や、大事な動向について論じるツイートとかが増えすぎて、情報過多でおぼれそうになってきた。
そういうとき「リスト」という便利な機能もあるのだが、一回やったことあるけど、私の場合、ぱっと開いて目に入らないのは無いも同然らしくて、全然チェックしなくなってしまった。
なんか、うまくやりたいものだ。

私は、遠くで普通に日常送ってる人が、ふとなんかしゃべってる、っていうツイートが、好きだ。
ブログの文章、長くて読みづらくて、自分でいやになったので、せめて行間をあけようと心掛けた巻。

「奥さん」の確定申告

先日、確定申告を終えた。
今回はけっこう前から準備してたので大丈夫だった(日々こつこつやればもっと大丈夫なのはわかってるんだけど、なかなか)。
私は個人事業主だけど、夫がサラリーマンなので、税金的&社会保険的に近年、微妙。
私の立ち位置の「奥さん」がたぶんあまりいないせいか、夫の会社の経理担当者の処理もなにやら「?」で、おととしあたりからこちらも、前以上にいろいろ知っておく努力をしている。ネットで検索するとこういうヒトは結構いるらしいのだけど、夫の会社でレアケースだと、要注意です。アレ?と思ったらまかせちゃわないほうがいいみたいよ。
「奥さん」でも、青色申告はできるし、年金と、社会保険と、続き柄は別モノだ。
本来、国民年金の第3号被保険者、国民年金の第1号被保険者、それぞれ、特に金銭面ではメリット・デメリットがあって、それは好んでなったりならなかったりっていうよりは、立場が変わってきたらそれに合わせてそうなる、という性質のもの(と私は思ってる)。
とはいえ、金額的負担に差があると、ちょっとでも有利にと考えるのは人情で・・・
でも、ここで金額的負担に差があるのを優先するのと、現状とこれからに合わせて立場を変えていくのとどっちがいいんだろうか、なんて考えるのも、「奥さん」ならでは。
国民年金第1号被保険者だからできる、いろんなこともあるし。
そういう立場だから、アンテナをはっていろいろ調べていると、知らないことの恐ろしさというか、損を思い知る。知る機会が得られてよかったな。

体調不良につき・・

先週末、体調を崩した。
飲み会のあとだったので、最初は二日酔い?と思ってたのだけれど、ぜんぜん酔うほどに飲んでないしおかしいなと思ってて、それがどんどん激しさを増していった。
あとで検索して、そうそう!と思ったんだけど、二日酔いの頭痛と吐き気が、二日酔いじゃないのに増幅しながら最大限までいって、まる3日続いたような状態。光を見たくない、音に吐き気がする。ふとんかぶってじっとしていたいが、どう減らしても欠かせない家事には、起きる他ない。また寝るとちょっとよくなるけど、10分くらいするとまた元の状態に戻る。なんだよー!これー!って感じ。
頑張って、近所の病院へ行ったらまずCTをとられた。娘は何度もやったけど、私は初めて。
まずはクモ膜下出血が疑われたらしい。でも違ったみたい。写真をみると脳はちゃんとぎゅっと詰まっていて、特に怪しいものはないとのこと。
診断は、片頭痛発作だった。
これまでも頭痛はちょこちょことあって、そのたびバファリンで対処してた。そういえば、1年前くらいにも一度、今ほどではなかったけど頭痛がバファリンでも治らなくて、もっと近所の病院にかけこんだことがあった。あれもそうだったのかも。
数種類の薬をもらい、何でも吐いちゃうので口にできないから点滴してもらって、帰って、薬飲んで寝たら、頭痛はおさまった。
頭が痛くないって、こんなに幸せだったんだ・・・・・と、心の底から感謝した。
たまっていた疲れが一気に出たのと数日間のダメージ、あと、薬のせいで眠いので、最低限の仕事をやりながら、しばらくだらだらと過ごしている。こんなのって久しぶりだなあ。
片頭痛が起きたのはいろんなコトが重なって、だけど、きっかけとなる要因+少量のアルコール+タバコの煙雲&密室の空気の悪さが増幅の根源だと思う。
そんなわけで当分、静かにおうちで過ごします。
なんとなく、自分の生活とか今後とか、見直すいい機会になる気がする。

飛び込み

3月の定期演奏会に向けて、娘の高校では吹奏楽部員が、広告・協賛をとるべくいっしょうけんめい営業してる。
自宅周辺が、飛び込み担当地域。
このへんは、あの子の高校とは地域が全然違うのでかなり不利らしく、断られてばっかりだ。
某スーパーに行って聞いてみたら、
店長が出てきて、「そちらの高校とは縁がないからねえ。ごく近所の○高校や、もう少し行って○高校あたりまでなら、出さないでもないんだけどね!」
って言われたそうだ。
うーむ。
例えそれが本当だとしても、そんな当事者にはどうしようもないコトをわざわざ言わずとも、「予算とってないから、無理なんだよね」とか、せめてやんわり断ってくれればいいのに・・。会社の営業マンが来たわけじゃないんだから。
あと、近くの食べ物屋さんでは、
前回訪問したときは好感触で、エライ人が出てきて「前向きに検討する」っていったのに、今日、訪問前に電話したら違う人に、「今回はなかったことに」と言われたらしい。
大人の世界を微妙に体験。「前向きに検討」はアテにならないよね。
にしても私なら、
たとえ見ず知らずでも、まじめそうな制服の女子高生が慣れない様子で営業して回ってきたら、絶対、広告出してあげたいんだけどなー(実際出すけど、今回も)。
もしくは、やさしくしてあげたいけどなー。
世の中難しいモノです。

「フリーランス」

毎日新聞に 脱「泣き寝入り」へ結束 と題して、フリーランスの人たちの労組の話が載っていた。主に、「フリーランス」というある意味宙ぶらりんな形態をとって働く人たちの、国への制度整備を促したい、といった内容と読み取れた。報酬の不払いや一方的な打ち切りなどの目にあいがちなフリーランスが、みんなで問題を共有し、ベースアップを目指すためにも組合が必要、とのこと。
それは、意味のあることと思う。
でも身近な感じでいくと、問題はそこまでには至っていない。むしろ、その「問題意識の薄さ」が問題なのではと、つねづね、思っていたりする。
例えば、若い人なら結婚後のこと、もうちょっといった人なら生活の「維持」のこと、私くらいだと老後のこと、「親」のこと、少しでも考え、何か動きを起こしているかどうか。
この間、「女性は金銭と、その周辺にある情勢の読み取り能力が男性よりも鋭敏で、金融商品への学習能力が高い」とどこかで読んだが、それは女性だからというよりは、女性は「結婚」「出産」「育児」「職場復帰」といった場面で、いちいち知識の有無で情勢と損得が決まるため、おのずとその力がつくのではないかと私は思う。
つまり、危機感の差だ。
なんたって、夫の選択ひとつが、(あっちが収入の核になっている場合)こっちプラス子供の人生を左右するのだ。危機感を抱かないわけがないよ。
良いCMSはどんどん増えるし、MTはメジャーバージョンアップするし、HTML5が標準になるし、windowsも7になる。
高校生まで子供をみてて再認識している今日この頃なのだが、基本的にそういった技術に関する「学習」は、やる人はひとりでもやるし、やらない人は集まったってやらない。そして、やる人は、静かにいつの間にかやってる。「やらなきゃ」と思うところから、すでに能力なのであり、「やらなきゃ」→「やる!」が出来れば、それでOKなのである。
だからそういったことに関する勉強会は、有意義ではあるけれど、「必須」ではない気が最近している。
共有したほうが問題って、もっと他に、ないのか。・・・
でも、「問題を共有する」ということは、自分の抱える問題を表にさらさなくてはならない。そこに抵抗のある人が多い。あるいは、まだ自分の抱える問題に目が行っていないか、どちらか。目をやってしまえば、把握したり解決したりと、様々な労力が必要になる、だからそこから目をそむける。
「フリーランス」でずっとやっていけるのか?
自分が健康で、仕事をフルにこなす時間が確保できるのが「フリーランス」でやっていられる条件だ。その体制をこのまま何十年、どうやって維持していくか、あるいは維持できなくなったらどうする?「それはそのとき」?
・・・しかし、できるとこからでも何かやったほうがいいんじゃないのと、私は思うけど、そう思わなくたって別にフリーランスなんだから好きにすればよいのも当たり前なわけで・・・
結局私も、そこを棚上げする以外にないのだけれど・・・・うーん。

障害

さっき、はてなを見てて思いだしたのだが、
そう、昨日ニュースに出ていた、障害のある子が普通の中学校に入学を拒否されていたのが、OKになったという話。
もちろん、障害のある・ないのラインもとても微妙で、その辺は非常に、難しいところではあるのだが・・・
ちょっと記しておきたいと思う。
少なくとも、介護者に背負われて階段を上り下りするテレビの姿は、「安全」とは、言い難いと私は思ってしまった。
どういうケアが学内でされるのかは、詳しくわからないけれど、
あの状態で、ちょっと走ってきた子供が、あの介護者にぶつかって階段を落っこちでもしたら、と、考えるのは用心深すぎるか?いや、私はやっぱり考える。
学校の中は、人をおんぶして歩いて安全なように、考慮されてはいないのだから。
普通の学校に行かせたい気持ちは「これまで町立小学校へ通っていた」から。それは、わかる。
環境が変わるのは、子供にとってすごく影響の大きいことだ。
「社会に出れば普通の人たちの中で生きていくのだから、ずっとその中で生きていくのが必然」というようなことも、お母さんが語ってらした。
でも、「その中で生きていくための力をつける教育」は、むしろ、障害のある子供のための教育機関で行われるのではないだろうか・・
普通のコたちも、中学の3年間では驚くほど変わる。
あの子が、ああなった!?みたいなコもどんどん出てくるし、みんな、いろんな価値観の確立に忙しい。
ただでさえ、翻弄され続けている中学校の先生たちが、あのコの底にある「力」を、果たしてちゃんと引っ張り続けていけるだろうか。
よそのおうちの娘さんだけど、なんだか・・

答えを出すこと

Yahooのニュースに、沖縄慰霊の日について県内の大学生にアンケートしたところ、その日・23日の由来を「知らない」と答えた人が3割だったという。
でも、同時に、沖縄戦について学ぶことは大切なことだと答えた人は、99%を超えた。
「それ」が、大切なことであり、こちらが正しい方向だということは、何となくわかっていて、そのようなことを話す。
けれど、「それ」について自分の物差しを当てて問題をとらえなおす機会が、足りてない。
だから、説得力のある人や表現が、物事に対する考え方を知らず植え付けられやすい。
そういうふうにみえるね。
「エコ」、「戦争」、「テロ」、「命の大切さ」
みたいな題目に対しては、どれも同じく、アンケートをとればそこそこ優しい答えが集まりそうだ。
でも、その答えは、答えを出すに足りるだけの自分の情報を、集めた上での回答なのかどうか?
初めから誰かが出している答えを見聞きして(たとえば、「ひめゆりの塔」の悲しみをスクリーンから感じとって)
「これはあってはならない出来事だ」、と答えを出していないか。
それだと、誰かが出した答えを読んでいるに過ぎない。
人間の、積み重なってきたいろいろな問題を、初めから準備された「泣ける歌」「感動のエピソード」と、変わらない脳が処理してしまっては、答えは出ない。
まあ、若者を育んでいるのは、それらの提供を許してしまう文化を作り上げてきたオトナたちなので、仕方ないのか・・・・
いや、仕方ないじゃ、ダメか。
なんて、考えたわけですけどね。

実験台

PCの性暴力ゲームの規制について、議論がされている様子。
いつでも、どこかで誰かが議論はしているのだと思うが、たまに気づくと、現状にあらためて驚くというかあきれるというか。
「ゲームは娯楽としておさめておいて、現実には、きちんとした概念を持って生きるよう、親や世の中が指導して・・」みたいに言う人もいるが、そもそも「女性に乱暴して妊娠・中絶させるか否か」までの道のりを「ゲームという娯楽」の枠に入れちゃうところから神経おかしい。
生殖にまつわる快楽を、どれだけ変異・肥大化させて利用しきれば気が済むんだろうか人間って。きっと気は、永遠に済まないんだろうな。
オトナの週刊誌が道端に落ちているのを、見るか見ないかドキドキする程度だった我々の時代とは、全く土台から違う。
思春期に、興味を抱いてネットを開いて検索すれば、あっという間にハダカやエッチが見放題、エロゲも手に入り放題、なんて環境がある子どもたちが今、30前後に差し掛かり、「さあいったいどんなオトナに育ったでしょうか」という、実験台的状態に置かれている。
(ちなみにそういう環境に、十分オトナになってから出会ってハマった人の結果は、結構出尽くした気が。身近でも、ニュースでも)
実験台といえば、タバコを吸いたいだけ吸って、食べたい・飲みたいを満たしてきた世代の人たちが60才前後になってきて、「さあいったい寿命や病にどんな影響があったでしょうか」というのも、最近よくある実験報告といえる。その前の世代は違う意味で生きづらく、健康に悪いからタバコや動物性脂肪は少なめに、じゃなくて要は手に入りにくかったから少なめだったため、ある意味、初のサンプル?
また、ここまで歴史的に手に入れてきた人間の様々な便利を手放して、「自然派」にいっちゃった人たちも、どこへ着くのか気になるところ。
「エコ」とか「核燃料」とか、材料は尽きない。
実験結果を最後に手にするのはいったい誰なんでしょうか。なんて、実験台的立場に自ら立ってしまっている人間が思うのも、そいつの掌の中でのことなんだろうか。
考えてたら、ちょっと空しくなってきたので、手元にある仕事をとりあえずやることにする。

ご冥福

忌野清志郎が亡くなったことは、とりあえずmixiで書いた。
それから、いろんなメディアで、ブログで、影響というか、反響というか、が、広がっているみたいだ。
こういう、知られてる人が亡くなったとき、ブログやコミュニケーションツールみたいのがなかったら、誰も自分の気持ちなんか発表しなかった。
家庭内で話題にする程度か、あるいは自分の心のうちで、「えー、死んだんだー。」って思って、テレビでその映像をみて「この人知ってるわ。へー、こういう活動もしてたんだね!そういえば、あの人が好きだっていってたよな」みたいに、ごく個人的な範囲でその反響は起き、数十分もすればすっ飛んでしまう、少なくとも一晩寝れば、それで終わりになってしまう、そういう人まで、
ネットがあるから、本来は特に形にならなくてよかったことも何となく習慣的に書いて、最後、「ご冥福をお祈りいたします」って書くんだよな。
まるで自分への免罪符みたいだと思う。敬語が苦手な若い人たちでも、おくやみの言葉として誰も彼もが使うその言葉。
ビジネス文書じゃないんだから。
ほんとに悲しい人は、すぐにご冥福なんか祈れないし、祈りたくないし、もっと上手いことなんか言えないよね。
私が死んで、もし何か言わないといけない場面に遭遇したら、それ、言わなくていいです。
違う言葉がみつからなかったら、何も言わなくて大丈夫ですよ。
そういうことってあんまり云える機会はないから、そういう意味ではブログって便利(?)。