Archive for 3 月, 2009

中学生たち

妊娠中の先生と中学生の記事を読んだ。
うーん。
まず思ったのは、この子たちの親は・・?ってことだ。
私は、自分の考え方が娘にそのまま反映されていくことを、時にすごく感じる。
だから、あまりダイレクトに影響を与えちゃわないように、時々ブレーキを意識してかける。
いくら家にいる時間が短くても、そのくらい、親と家庭環境は、子供にとってすごく大きいモノだと、実感がある。
・・実際、どうにもならない親が、いるんだよねえ・・・。そしてその子たちは、やっぱり、どんどんそっちへ向かって行っちゃうのよ、どうしても。
教師や、周りの親たちが何とかしたくても、どうにもならない。
やっぱり、親、だ。
命の重さ、とか、モノゴトの善悪、というのは別に「教育」じゃなくて、一番身近な大人が、フツーの行いを無意識に見習わせて覚えていくって気がするから。
この子たちが、事件になって、後悔して泣いて、次にどうするのか、他人事だけど、気に掛かる。
ごく身近でも、気に掛かる元・娘のクラスメイトたちが何人もいるのと同様に。

卒業式

めでたく卒業式を終えました~。
3年間は、今にして思えばあっという間だったなあ。
校長先生が、うちの中学出身・今年で定年てことで、挨拶のとき途中から泣いてて、ちょっとびっくりした。
私自身は「感慨に涙」、というよりは、「あー、終わっていく!やりきったね!さよなら吹奏楽部!」みたいな、さっぱりした気持だった。
いつもどこかが素でトボケている、お世話になった学年主任の先生が、式の少し前に、廊下で娘の腕をぐっとつかまえて、「な、何?!」とうろたえる娘に、
「証書をもらったら、まわれ右!ですよ、右!右ですからね!」と、自分が右に回る勢いで念押ししたんだって。
何度練習させても、なぜか左に回ってしまう娘への、最後の送る言葉。
おかげで、あの子はちゃんと「まわれ右」でした。
さようなら。いろいろ、どうもありがとう。

表彰

「PTA功労者を表彰するので、卒業式の後に集まってください。」
という手紙が、子供づたいに手渡しされた。
・・・・私は、PTAには、何も功労なんかないぞ?
決まってる役員会は、できるだけやったつもりでも年に数えるほどしか出席してないし、それ以外には・・・まあ部活は結構がんばって手伝ったけど、あれはあくまで「部活を」手伝ったんだし、PTAとはほぼ関係ない任意な活動だし。
それに、表彰するから来てくださいっつっても、表彰する側にいったい誰がいるのかすら、全然わからない。連絡先を見ても、知らない人である。
こういうとこがさあ、PTA活動が引かれる理由なんじゃないの?
だって、「卒業式」だよ?人生たった一度の。
これまでだって、日程繰り合わせて、学校やその他の人たちの予定を調整して、間違えないように、遅れないように、失礼のないように、なんていろんな気を使いながら、やっと3年間終わってきたのに、この超個人的にものすごく特別な日、どうして「PTA」のために、事務的な手紙1枚で、そんな思いをしなきゃならないのよ。「表彰」という儀礼をこなすだけなんじゃないのよ?
といいたかったけど、
「夫と出席するので、私ひとりだけ予定つくるわけにはいきませんので」と、大人の欠席の連絡を。
当然だが、別に相手の感情がどうにか動いたわけでもなく、「ああ、そうですか。じゃあ、朝渡すのと、子供を通じて渡すのと、どちらがいいですか。」
「・・・・・渡すとは、何を?」
「記念品と賞状、渡すだけなんですよ。」
”渡すだけ”と思ってんなら、最初からそうしたら?と思いつつ、
「じゃあ、子供を通じてお願いします。」
ほんとは、別にいらないよ。
私の人生初でたぶん最後だと思われる、PTAというチーム活動は、もう終わり。
卒業式は、何の束縛も、時間配分もなく、娘の成長を、(こういうときぐらいは)夫婦でかみしめたいから。

ネットと仕事

さとなお.comのテレビ局で講演した記事の中で、ネットメディアを活用していく(いくべき)人たちへ向けて、書かれていた。(テレビの人たちへの講演内容に関する記述)
(ネットの使いこなし方が)”生活者と同じレベルでどうする”
私自身も、心掛けなければどんどん取り残されて、新しいコトに置いて行かれるネットの世界。
ましてや、これからもネットを利用してお金を得ていこうという人たちなら、なおさら、「若い人とは違って、自分らはトシだから」「WEBはシロウトだから」「若い人にそのへんはまかせて、ウチらは経験値でいけるとこを」では、通じないのだ。
肉を知らないと、肉屋はできない。
冷蔵庫を組み立てられなくても電気屋はできるだろうけど、「壊れたときにどうすればいいか」探し当てられなくては電気屋と呼べない。
すごく当り前のことなのに、WEBだけは「よく知らないけど」、なぜか消費者レベルのままで商売できると思ってる人が、まだまだまだまだ、多すぎると思う。
・・講演内容とは直接関係ないっぽいけど、でも、ようはそういうことだ、と思った。なんかうまく書けないですが。

終わりと始まり

受験にまつわる様々なことが一気に終わった。
わが子について、それぞれの親が自分なりに一生懸命決断をして、良かれと思うことを何でもやって、そうやって合格発表の日は誰にも等しく訪れたわけだけど、こういうのを明暗というんだなあ・・と、その場にいて何時間分も過ごした気分になった。
不合格となった子の親に間違って話しかけてしまうと、本当に本当に「何も言わない方がいい」。何も言いたくないのに立ち去るわけにもいかない時、人間はロクなことが出てこないので角ばっかり立って、焦る。忘れてくれてることを祈るばかり。
約束どおり、携帯電話をプレゼントするために街へ出た。思いがけず、わりと渋いデザインのを選んだ彼女。
行く高校が決まってる、携帯電話持ってる、受験勉強じゃない勉強がはじまる・・・私も、あの子もたぶん、まだ何となくそれらの実感がない。ちょっと夢の出来事みたいである。
でも夢じゃないんだよね。西の端っこから東の端っこまで、ほんとに通うのか、どうやって通うのか、まださっぱりイメージできていないのに、かかるお金と準備するものと、出向く日付がもう決まっている。そういや、制服も買わないと・・・。あ、カバンもだね、教材は山ほど購入予定表に書いてあるし・・。
次は、入学にまつわる様々なことに直面しなくちゃならない。
それに備えて今日は、まず確定申告書類を完成させて、めちゃくちゃだった部屋を(私は仕事部屋、あの子は自室)大掃除した。
あの子に、「合格したら、楽器買ってやる!」って言ったのも、忘れてませんよ。
その分、イイ仕事しますよ。

お金とか

「ホリエモン」のインタビューを読んでたら、「お金で何でも買える、みたいな発言は、誤解されている」と書いてあった。(インタビューの中にある)ホントかな。あの時点では、そういう雰囲気ではなかった気がしたけど、本人がそういうならまあ、そうなんだろう。
ドラマ「銭ゲバ」も佳境に入ってきたこの頃、おカネについて考えるに、「世の中、カネでどうにでもなる」かどうか、というと、そうでもない気がする。「銭ゲバ」な人たちが、世の中カネ的に堕ちていったのなら、それは悪いサイクルに放り込まれてしまったようなもので、本来、価値を均一にする道具である「カネ」が本質にとって代わるはずはない。
でも、「世の中、カネじゃない」も、違う。大きな価値を得ようとするときに、それに釣り合う価値と交換するのは、まっとうなことなので、やっぱり「カネ」は大切な道具だ。
実際、お金がないサイクルに一度はまると、そこから抜け出すのは容易ではない。
YUIちゃんの歌(娘が聴いてる)で、「お金なんてちょっとあればいいの」というのがあるが、「ちょっとあればいい」とは、ある程度「入ってくるサイクルにいるから言える言葉(YUIちゃんはカワイイので、全然いいんだけどね)。
その「ちょっと」が、自分にとって、他者にとって、どれだけの価値を持つのか。どうやって「それ」は手元にやってくるのか。私もそれを考えず、実感を少しも持たないままオトナになれた子供だったが、今の子供たちは、昔とは情報量と質が圧倒的に違う中で、知らないうちに脳内で偏った経験を積み、見た目同じように大人になる。・・どこが問題かうまくつかめないけど、何となく怖い気がする。
話が違うけど、最近、パートに出ようとする女性が増えて保育所待ちが急増しているというが、そうなってやっと問題が大きくマスコミで扱われてきた感じ。
私が、娘をおんぶして保育所と役所を回ったときと、基本変わってない。要は、仕組み的にどこかおかしいのだ、アレは。だって、「何かの時、子供さんを見てくれる人はいますか?保育所のアテがありますね?」と面接先で聞かれるのに、保育所の申込時には「仕事を持っていて、就労証明がないと申し込めません」と言われ。やっと申込が出来ても、待ちが何人いて有職者が優先ですって、いったい背中の子供の今後をどうすりゃいいのよ?認可・無認可の境目っていったい何よ?まったく、あのときは、自分が眼を開いてなかったことがこんなにあるんだ・・ということを、情けなく感じたものだった。
何かとお金がかかり、いろんなコトが転化する時期が来たもので、こんな感じのことを考えているのかもしれない。