Archive for 3 月, 2010

Twitterのこと

Twitterについて、書いてみる。
私はかなり以前にアカウントを作って一時放置して、復活、現在はわりと楽しく使っている。
ひとつ、仕事のアカウントも預かっていて、そっちは今は複数人で運用もしている。
個人利用のほうは、私は積極的に何か情報を提示することもないので、圧倒的にただ見てるときだ多い。
Twitterの現在の利用者平均年齢は40歳前後みたいな記事をどこかでみたけど、確かに私のタイムラインをみてても、そんな感じ。
私のスタンスは、Twitterもブログも同じだ。
このブログは、昔は完全にプライベートな赤裸々系だったけど、屋号を持って働き出してからは基本的に仕事サイトからリンクもしている。でも、仕事のことに傾くつもりはなく、赤裸々加減は緩和されても、基本は私個人のブログである。
「なんで、ブログを書きたいんですか?」と、昔から聞かれることも多かったけど、なんか、書きたいのだ。それだけ。
せっかくずっと書いてるから続けよう、という面も、おそらくあるし。
何かをきちんと書いて表明する場なんで、私みたいな何の地位も持たないヒトには他にないし。
つまり、自分のためだ。
だから、コメントをオープンにしていても、誰かと議論するつもりはなく、私が書いたことに異論をとなえられても困る(そもそものブログ発祥的文化とは違うかもしれないが)わたしはそう書きたいのだから。それを「それはおかしい」といわれてもね。
Twitterも、基本、同じである。
常識的に大丈夫であれば、好きなように使えばいい。しかもTwitterは、フォローもアンフォローも自由。
といっても、やはりこっちの好み的にアンフォローするのは多少勇気がいるし、逡巡する場合もけっこうある。
たまたまフォローしてみて、うわこういう話ばっかりこんな延々とされても困るなーというときとか、ある。
それがいくら、いわゆる有益な話であっても、Twitterはある意味、「公道のおしゃべり」的に、空気は多少問われると思う。
「公道のおしゃべり」で、すれ違いざまに「私はこんなスゴいヒトです」「うちの商品はこんなにイイものです」と、大声で言われたら、絶対避けて通る。
という意味で私は、そういうつぶやきは避けて通っている。これ、みんな同じなんじゃないかな。
よってTwitterを営業的に使うのは、よっぽどじっくり、好感度高くて話題豊富な担当者をしっかり張り付かせるくらいにしないと、無理なんじゃないだろうか。小さめのネットショップのフォロワーは同業が多いあたりも、それを物語っている。といって、そんなゆとりのある店舗ばかりではないだろうし、とにかく社長ブログがいっぱい出来たときみたいに、なっていきそうな気がしてきた。
社長ブログつくったって、書くことがなければ意味ないどころか逆効果だから。
てことで、Twitterは、誰かの本音がちらっと見えて、わかんない話の中にちょこっと琴線に触れるあたりが楽しい・興味深いという面、そして、情報窓口として自分向きなヒトが探せると、いろんなニュースが流れ込んできていイイことがある、という、2つの面で面白いモノだ。
そして、合わない切り口にはとりあえず、まず、目線を向けない試みを。それでダメなら勇気を出して、アンフォロー。
ちなみに私のつぶやきは、いわゆる「情報要素」はゼロ、「気分転換要素」80%、残りは誰か宛て。

余生の使い道

このところ、政治で何かが決まったり、国で何かがはじまることになったりしたことに、ナンダ?そりゃ?と思うことが増えたのは、・・政治家の質が悪くなったってことでは・・・ないんだろうねえ?
昔からそんなもんだったのかな?
たぶん私が、高校出て以来、大学行き続けて働き続けて結婚し続けて子供を育て続けてと、いろんな面で「維持」に全力を注いでいて手一杯だったから、気が付いていなかっただけか。
最近、介護の問題とか、仕事や体調不安定でリアルに自分のちょっと先を想定したりして開き直り、ふと世の中に再び目をむけてみたら、視野に入ったことがいろいろ。なんで?・・なんで?・・えーっ!なんでー?の連続。
制度は利用するヒトの身になっていない。なんだかあてずっぽうで勝手に変わる。どの分野にしても、本当に困っているヒトの声は、本当に困っている故にか細く、どこにも反映されないまま消えていく。
私は私なりに、今まで生きてきた何らかの蓄積はあるはずなので、ちゃんと足をつけて、身近な誰かに、ちゃんと役に立てる働き(仕事というか、働き)をしたいと、思うようになってきた。
子育ても終わりにさしかかり、あとどのくらいあるか不明な余生、(本来、人生を35年とした場合)どう使おうか、考える暇があるというのはありがたいことだね。